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公益社団法人 日本騒音制御工学会

会員コラム

騒音の定義から見た騒音制御(Vol.45 No.5)
騒音の定義から見た騒音制御

騒音の定義から見た騒音制御

私事

 私事であるが,転職して 10 年経った。「騒音制御」に取り組む立場が変わり,見える世界が変わったように思える。個人的な思いで恐縮であるが,おつきあい頂きたい。
 10 年前は音響コンサルタントの仕事をしていた。この頃は,物理的な係わり合いが多かったように思える。もちろん「感覚的評価」に関わる仕事もしていたが,苦情は依頼者の先の存在であった。物理的にこれくらいの大きさ,評価を当てはめるとこう。低減するとしたらこう。ということが仕事であった。
 大学の教員になってから,「調停」「訴訟」などの紛争に関わるようになったのである。物理的かつアカデミックな客観的な世界ではどうしても対応ができない状態に陥るのである。
心理学の世界に「騒音」の定義である。釈迦に説法の話しであるが,その人がどう感じているのかが重要なのである。これが問題となるのは,利害関係がそこにあるのである。先輩の先生から「騒音問題は,音が問題ではないことが多い」と伺ったことがある。この役割を担うことになり,まさにそうであると感じている。「調停」に結びつけるためには,問題の本質を捉えないといけない。人の心の動きが知りたくなったのである。それで心理学の本を読むようになった。これが結構面白く,研究そっちのけで読むこともしばしばであった。ある時,専門書に挑戦することにした。ここで,問題が生じた。専門用語が分からないのである。いや,一般的に使われている言葉もあやしくなったのである。例えは「批判心理学」という言葉がある。私は「批判する人」の心の状態の研究と思ったのである。どうやら「心理学」を批判的に見て,心理学をより進めようという研究分野らしい。
 「最近のネットの記事は批判にあふれている」と感じている。「批判」という言葉は,広辞苑第 7 版では『人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。』という意味も持っているのである。この見地からは前言の「批判にあふれている」というのは「「非難」のことを「批判」なんて言うんじゃないよ」ということになる。脱線したが,私の場合,心理学用語の解釈で行き詰まったのである。

仏教の世界に
 とある師匠と「諸行無常」とはなんぞやと会話を楽しんだことがある。それで,初期仏教の世界も興味がわき勉強し始めた。行き詰まることもあるが,分かり易い解説があるので心強い。心理学の知見は初期仏教と大半が一致していることに気が付いた。
 「一切皆苦」という言葉がある。にわか知識を紹介すると,楽というのは,苦が少なくなるからそう感じるらしい。座禅するとしびれを感じるが,それを解釈しないでほっておく。それが修行の要のようである。
 「音」も気にしなければ「騒音」ではない。「不快で好ましくない」と感じなければ良いのである。そうすれば「智慧」があらわれ,「涅槃寂静」に至ることができるかもしれない。
 騒音問題を扱っていると,「気にしすぎですよ」と思うことがある。この場合,各種基準と比較して下回っているということで決着を付けることになる。これで,解決なのだろうか。本来は,当事者が納得して解決であろう。音があろうが揺れようが,気にならない心になれば問題は解決することになる。そのように,気が向くようにすれば良いのである。そんな「騒音制御」を考えている。
 「調停」は当事者の心が変わらなければ成立しない。「気にしなければ…」という説得は「痛いの痛いの飛んでいけ」と同じなのである。まして「騒音封じのお守り」を作って売りつけるなんて,言語道断である。いったいどうすれば良いのであろうか。座禅を組んで考えても,足が痛くなるだけである。

おわりに
 「人の気持ちに苦が生じないようにしたい」と言えば,聞こえは良いが,やろうとしていることは気持ちの操作(マインドコントロール)である。Q アノンの信奉者の心を正すことを含め,他人の心を変えようなんて所詮煩悩,「無明こそ最大の咎」というところか。合掌(チーン)。

(愛知工業大学 佐野泰之)

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