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公益社団法人 日本騒音制御工学会

会員コラム

騒音問題と係わって50年あまり(Vol.37No.1)
騒音問題と係わって50年あまり

騒音問題と係わって50年あまり

こんなに長く、この問題に関与することになろうとは、全く思いもしなかった。大学(昭和31年卒)では光学研究室で色彩学を専攻。その頃、天然色映画も始まったばかりで、当時の東映大川社長から、助監督、照明ということで、卒後、東映に入社することが決まっていた。しかし家族等の反対によりこれは取りやめ。 急遽、石川島重工業㈱(現IHI)に入社、技研に所属することになった。しかし造船や重機の製造会社ではまだ色彩に関連する仕事などなく、2年ほど応力測定などの計測業務に従事していた。

昭和33年頃、防衛庁技研で「警備艦の騒音防止に関する研究」が取上げられ、委員会が設置され、IHIがその手伝いをすることになった。委員長は当時東芝マツダ研におられた我が国騒音の草分け守田栄先生、委員の一人は当時東大航空研究所におられた五十嵐寿一先生であった。そんなある朝、直属上司(のち東芝取締役牧浦隆太郎氏)に呼ばれた。「色は目で見るもの。音は耳で聴くもの。同じようなものだからお前やれ。」ということでIHIの委員にされてしまった。それからが大変、同じようなものと言われても音については何も知らない。教えを乞う先生もいない。測定器もない。実験に使う測定器は、初めてお会いする五十嵐先生のところからお借りすることになった。守田先生にもこの時初めてお会いした。これがきっかけで、その後、お二人の先生とは、お亡くなりになるまでの長きにわたり、騒音等についてご指導を賜り、日本音響学会、騒音制御工学会、国の仕事などを一緒にさせていただき、公私共に大変なお世話になった。この出会いによってその後の私の人生が定まったといっても過言ではない。

この委員会の後は、社関連の騒音問題を一手に引き受ける羽目になり、折から急増し始めた騒音公害問題解決のため日本国中から東南アジアやヨーロッパにまで頻繁に足を延ばし多くの対策を手掛けた。海外出張も89回までは数えていた。

昭和 51年頃、造船不況乗切り策としてIHIでは幾つかの関連会社を発足させる準備が進められていた。そんなある日、当時の真藤恒社長(のちNTT初代社長、会長)から、突然呼ばれた。「騒音対策の会社として石川島防音工業(現INCエンジニアリング)を設置することにした。社長として君はそっちでやってくれ。」である。ビックリ仰天、ハイというより仕方なく決まってしまった。昭和52年から59年までの間、騒音・振動問題に関する実務や経営についてみっちり勉強させられた。その間、しばしばNTT社長室を訪れ何かと相談に乗って戴いた。退任後は再びIHIに戻り、IHI退社後、平成3年、騒音・振動防止のコンサルタント事務所(中野環境クリニック)を設立、現在に至っている。

この間に手がけた、騒音、公害振動、超低周波音、低周波音等に関する主な対策事例、発表論文、報文などの昭和3851年分は、騒音・振動資料全集上巻(1200頁)、昭和5261年分は下巻(2500頁)として、東洋堂企画出版社より出版(工学会に贈呈済み)、昭和62年~現在の分(1800頁)は目下整理中である。

著書は、昭和47年、大気汚染・騒音技術計算入門を共著で表したのが始まりで現在迄100冊を超えているが、どんな本であるかは、最近の20数冊は、KinokuniyaBookWebamazon.co.jplivedoor Booksなどでみることができる。

今回、工学会から功績賞を戴いたが、今までに日本造船学会、日本産業機械工業会、産業公害防止協会、その他の学、協会から頂いた論文賞、奨励賞、功績賞などを含めると、20件余りになった。まことに有難いことである。しかし賞に値する働きをしたという実感はない。ただ騒音対策等に飛び跳ねていただけのことであった。

従来の騒音対策は、主として機械等の発生する「音波の制御」という 物理、工学の問題、まさに騒音制御工学そのものであり、音波の発生低減によって騒音問題の解決が図られてきた。

しかし最近は、音波を音として感じる人間の感覚、心理が問題になってきている。 同じ強さの音波であっても、安眠、聴取、健康、習慣、利害、気質等によって音の感じ方が異なり、様々なトラブルが生じている。このトラブル解決のためには、人間の思いを変えること、いわば「人間制御」が必要なようである。

政治も代わり、経済、社会環境も変わりそう。騒音対策調査もスマホでできる時代、騒音制御工学会もそろそろ今後を見据えた将来構想を策定する必要があるのではないかと思う。

かっての東北大学二村忠元先生の急逝をきっかけに、どういうわけか、守田先生から、「中野さん死んだら終わりだよ。死んだら終わりだよ。」と再三言われてきたことを、何かにつけて思い出すが、ここまできたからには、終わりまで、もう少々頑張らざるを得ないようである。

中野有朋(中野環境クリニック)

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