日本騒音制御工学会は、騒音・振動およびその制御に関する学術・技術の発展と普及を図り, 生活環境の保全と向上に寄与いたします

公益社団法人 日本騒音制御工学会

会員コラム

音の化石を残したい(Vol.30 No.3)

音の化石を残したい

最近時々考えることは音の有意性というか、必然性というか、なぜその音はその特性を持っていないといけないか、それらのお互いのバランスがどう成り立っているのか、ということです。騒音、建築音響関連の仕事を始めてしばらくは、その固有の音源や遮音部材の単独のものとして考えていた。しかし耳のほうが、ある必然性のもとに作り上げられてきたと考えると、音源の特異性は聞かせる側の意思、作為の結果だと思われる。聴覚も聞かせる側、聞く側の生態系全体として取り込まれた感覚だということが、やっと分かってきたような気がする。一般的に考えると自然界や少し前の時代には大きな音を出すこと自体が難しかったのではないか。伝達手段として音を作るのに苦労や試行錯誤を繰り返していた時代と、音を小さくするために苦労している時代。確かに熱や動力の現在の使用量に比べて音のエネルギーは微々たるものであるが、雷以上の音圧に酔いしれている爆音愛好家(マフラー改造車や強力ロック演奏など)たちの心は自己顕示欲と、その麻酔効果なのか、もしくは難聴なのか。

“聞く耳持たぬ”の効果は何dBと考えてみると、泥酔しているときに、雷が近くでなっても起きないことがあることを考えると、100dB位までは平気かもしれない。一方“聞く耳持つ”方は、私の経験から言うと15dB位まではクレームの対象となり得ると考えられる。当然坊主が憎ければ袈裟まで憎い気持ちは理解できるが、音に敏感な人でそれ以上に研究熱心な方もいて、日々周辺の生活状況調査と原因究明をされる。筆者などが不思議音などの探査をするため意識的に壁に耳をつけるのと同じように壁に耳を当てて聴いてみる。そうすればかすかな固体音も聞こえるので、いろいろメモを取りデータを分析し、音による他人の生活パターンまで把握する、こういう人は研究者と言える。

音が無いのも不安なものである。世の中から取り残されたような感じがする。無響室を説明するときに時々思うが、10dB位の中にどれぐらい居られるのだろうか。たとえば、音も無く、光もなく、匂いもほとんどなく、壁にも触れさせてもらえない5重苦は想像を絶するが、即身仏になるお坊さんは死ぬまでは耐えられる。一般人はまず死ぬ前に這い出してくると考えられるが、自分自身だと5分ぐらいが限界かもしれない。もしくは暴れまわって早く死ぬ。寝ていると思えば6時間ぐらいは持つかもしれないが、凡人には心頭滅却しても火は熱そうで、やはり人は必要だから音を聞いているのだ。

音に関わって数十年経つが、勉強不足なのか、物理的側面はやや理解できたものの、他の側面、特に心理面、生理面については、分かったようで分からない。こうした彷徨える音技術者を助けてくれるのが騒音制御工学会の目的と勝手に解釈して、この学会について考える。騒音の研究者、実務者ならびに基準などを作る人、それを運営する人達が集まって、討論し衆知を集めるのが騒音制御工学会の役目の一つと思われる。工学会なので学術的なことが多くなるのは当たり前だが、網羅的に考えると若干メンバーのバランスを欠く部分もある。たとえば居住者、被害者、つまり一般的に言うと裁判の原告になる人達で専門性を十分判定できない、もしくは聞きたくないのか、お互いにホームページでやり取りし、盛り上がったりしている。本人たちの意見はあまり否定されないので、お互いの傷を舐め合いながらの憂さ晴らしの場となることが多い。物理的な言い訳は感情論には却って邪魔になるのかもしれない(それでも音は聞こえている・・・調)が、これだけで問題が解決されているのであれば一つの選択枝かもしれない。でも、そういう人達に 公平中立にアドバイスしてあげられる人は必要な気がする。ボランティアが成り立つかどうか、今まで検討されたこともあるが、責任と費用のことなど結構問題は多い。

騒音制御工学会の分野別で不足していると感じられる人材は、司法の人、機械や建材の生産者、一般人となるが、これらは外部に幅広く公開シンポジウムなど開かないと、御馴染みさんが増えないと思われる。

周りの何かの音を騒音と感じる人がいる限り、騒音制御工学会の存在価値は失われないであろうが、学会も30歳になることだし、音は、その場限りのものであるのでなおさら、今まで生きてきた証として、何か残したい気もする。未来の人が発掘した化石からいろんな音がでてくるような、そんな仕掛けはないだろうか。夢はサウンドライブラリー地球版なのだけれど・・・。

(財団法人ベターリビング筑波建築試験センター 安岡博人)

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